「雑魚エンジニア」なのではないかという疑念を抱きつづける

自社開発メガベンチャーをわずか半年で鬱退職した雑魚エンジニアの話 という記事が話題になっている。内容については様々な意見があるだろうが、「雑魚エンジニア」という表現について自分の考えを書いておきたいと思ったので書く。

自分は「雑魚エンジニア」なのではないか

自分は2015年(高校2年生のとき)頃から本格的に(とはいってもたいしたことではない)プログラミングをはじめて、今年の4月にエンジニアとして就職した。それまでの間に自分は「雑魚エンジニア」ではないかと思うことは何度もあり、今もときどきそう思う。

どの時点でも実際に「雑魚エンジニア」であった可能性は否定できない。それでも、自分が本当に「雑魚エンジニア」にならないように当時できる努力はしてきたと思っている。

自分これまでの行動は 防衛的悲観主義 と呼ばれる、悲観的に状況を認識しつつも、想定する最悪の事態にならないよう努力し、その事態を実際には回避する行動であると自覚している。

エンジニアとしての技術力や行動を褒められることはある。しかし、自分の内心としては自分は「雑魚エンジニア」であるかもしれないという疑念を常に抱いている。この思考が、実際に「雑魚エンジニア」になることを避ける(= 褒められる)助けとなっている。

一方で、自分自身が「雑魚エンジニア」であると大きな声で宣言することには、自分に対するメリットはなく、自分の所属している組織や関わっている方々に対しても、メリットどころかデメリットしか生じないため、自分からそのような言及をすることは避けている。

大きな結論はないが、「雑魚エンジニア」なのではないかという疑念を抱き続けることが自分のエンジニアとしての成長につながっていると感じている、という話でした。